『影千代』 -1- -2- -3- -4- -5-  メニューへ


御庭番宿舎から自室へと戻った緋杜であったが、
宿舎での暮らしが半年という期間ですっかり板についてしまい
静かな自室が落ち着かず廊下をうろうろと歩き回っていた。
廊下の中央にある大きな窓からは、城下町の様子がよく見える。
城のまわりをぐるりと囲む清らかな自然も。
平和に満ちた城内に雨音だけが響いていた。
この城を、この城下を
いつか緋杜が全て任される時が来てしまうのだ。
父親の背中を追い、勉学や武芸に励んだ幼い日。
父のような立派な城主に憧れていたというのにこの有様である。
心に潜む不安はいつまでも拭えない。
緋杜は幼い頃から城の警備や兵について、不安を持っていた。
奇襲をかけられればこの城が容易に落ちてしまうであろう事を知っていたのだ。
このようなのどかな土地に立つ城へ奇襲や戦など、誰がかけてこようか?
冷静になればそう考えるのが普通なのだが、緋杜の心深には「予感」のようなものが潜んでいた。
だからこそ、誰より強くなろうと武芸や兵法も必死で学んだのだった。

「いくら努力しようとも、叶わぬ事もあるものだ」

ぽつりと呟いた緋杜の眼は無力な自分への憤怒の念で揺れていた。

「そのような事はございませぬ緋杜様。諦めなければ努力は報われるものです」

背後の声に一瞬息を詰まらせたが
その声が影千代であることに気付いた緋杜は、子供のように悪戯そうな笑顔を浮かべた。

「お前は報われた…と?」

「私はまだ修業中の身ゆえ、報われるのは先の事にございます」

「幼い頃から変わらぬな。お前は真面目な男だ」

「緋杜様にはかないませぬ。私は緋杜様の使命感の強さを幼き頃より尊敬しておりました」

影千代の言葉に緋杜の顔に影が落ちる

「使命感。そのようなものが何の役に立つというのだ」

自らを嘲るように緋杜は吐き捨てた。

「お言葉ですが緋杜様、貴方様はこの城の城主になられるお方です。
 緋杜様に強い使命感が無ければ城内の者も城下の民も守ることはできませぬ」

「影千代、守るというのは実力を有する人間が使う言葉だ。お前と違って私には何も守れぬ…」

その言葉からは緋杜が強く感じているであろう憤りと情けなさが滲み出ていた。
影千代は言葉を失った。
次期城主である緋杜に、今現在自分自身に強い怒りを感じている男に
かける言葉など見つかりはしなかった。
緋杜は影千代と目を合わせることなく、廊下の奥へと姿を消した。
沈黙の廊下には、先程より強くなった雨音がバタバタと響いている。

「倅を頼んだぞ」

脳裏に焼き付いた陣内の言葉に影千代は眉を顰めた。

『影千代』 -1- -2- -3- -4- -5-  メニューへ